2017年9月23日土曜日

声の文化と文字の文化

かれらはただ、どうせおもしろくないことがわかりきっている純粋に論理的な形式に、自分たちの考えかたをわざわざ合わせる気がないだけのことなのである(p114)……と、いきなり抜き書きしましたが、私も大賛成。

W-J・オング『声の文化と文字の文化』ずっと置きっぱなしでした、書棚の中に、それこそ何十年も。20代の頃、血迷って大学院(ぜんぜん畑違いの)目指したときに、たしか、かじったんだったか。タイトルもなんだかメディア論っぽくて、おもしろそうに思えず。

それが、おかげさまで “イイカゲンさ” が自分的にもここ数年、大きなテーマとなってまいりまして、加えてこのあいだ風邪ひいたとき、他にもう、なんにもできないもんだから仕方なくというか何というか、ふと手にとったのがコレ。ほんと気が向くっていうのは不思議なもんで。


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で、読み始めたら想像以上におもしろくて。そうそう、文字でこうして書いておかないと私も、すぐ忘れる。そんな、文字以前の人々の記憶について。どうやって、ものごと記憶されていたんだろう。興味津々。逆に小学校の頃から私もずっと思ってました、いちいち書かれたもの(教科書)丸暗記する必要あるのかと。いいじゃん書かれてあるんだから、と。こちとら機械じゃあるまいし。

歌い手は、基本的には、奇妙にも公共的なやりかたで思い出しているのである。かれが思い出しているのは、記憶されたテキストではない。なぜなら、そんなものはないからである。また、逐語的なことばのつながりでもない。かれが思い出しているのは、他の歌い手たちがかつてそれを歌い、かれがそれを聞いたところの主題やきまり文句である。かれはそれをいつも違ったふうに思い出す。つまり、特定の場で、特定の聴衆のために、自分流にそれを朗誦する rapsodize《綴りあわせる》、つまり、縫いあわせる。(p297)

いま本当によくわかる気がする。逐語的に丸暗記なんぞ何であれ、できるわけもないし、する必要もない。役所の人なんかは仕事柄、やらされるのかもしれませんが、ナンセンスだと思う。ついでに言うと冒頭の「純粋に論理的な形式」にしたところで。いや、ふつうは書かれてないと(そしてそれが頭に入ってないと)不安なのか? ある種のビョーキ?

印刷は、それを意図しているわけではなく、なにげないしかたでではあるが、しかし、大変着実に、つぎのような印象を与えることができる。つまり、テクストがあつかっている材料《内容》もまた、同様に完全であり、一貫している、という印象である。(p272)

あくまで “印象”、信用しなきゃいいだけの話だけど。「印刷物によって、書くことが人びとのこころに深く内面化されるまでは、人びとは、自分たちの生活の一瞬一瞬が、なんであれ抽象的に計算される時間のようなもののなかに位置づけられているとは思ってもいなかった」(p202)と、アッパレ!文字以前の人びと。

ある組織されたものを、口頭による構成は知らないのだし、そうしたものを考えてみることさえできない(中略)。人びとの生活のなかには、クライマックスに向かってすすむひとすじのプロットなどというものが、できあがったかたちで見いだされることはない」(p292)……OK、そう思います私も、好きな落語のことなんかも思い出しながら。


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しかし、何はともあれ「文字言語には、何百万何千万という人びとの精神のしるしがきざまれている」(p222)のだし、話し言葉に比べて「文字言語の資源《語彙》は 、まったく違った次元の大きさ」(p224)なのは事実。「これらの《書くということと印刷という》技術なしには、近代の自我の私有化も近代の鋭敏な二重に反省的な自己意識も不可能」(p352)だったのであり、その先にこそ「いっそうの内面化とともにいっそうの開放へと向かおうとしている現代の意識の進化の流れ」(p364)がある、と。出ましたプロット。

実際、自分も含めて「文字を使う人びとは、原則として、陳腐な常套句 cliche など絶対に使用しないように教育されている」(p55)のは心楽しいことだし、いまこうして忘れないようメモっていること自体、もちろん文字以降の人間のおこない。使い方さえ間違えなければテクノロジーは、素晴らしいものに違いない(ただ使い方、気に入らないケースが世の中のほとんどなだけでさ。← 清水の私見ね)。そうそう、この本のタイトルもよく見れば「Orality and Literacy --- The Technologizing of the Word」と、おもしろいんじゃん、じつは。がんばれテクノロジー、の使い手たち!


書くことは人工的であると言うのは、それをけなしているのではなく、むしろほめているのである。(中略)技術とは、たんに外的なたすけになるだけのものではなく、意識を内的に変化させるものでもある。(中略)十分に生き、十分に理解するためには、近づくことだけではなく、離れることも必要である。これ《離れること》こそ、書くことが、他のどんなものにもまして、意識にあたえるものなのである。(p174-175)


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