2017年1月27日金曜日

『新潮』2015年4月号の特別鼎談メモ

こないだ図書館で借りてきた雑誌『新潮』2015年4月号。なかの特別鼎談(浅田彰+中沢新一+東浩紀「現代思想の使命」)が読みたくて借りたんですが、タイトルはともかくとして中身さすがに刺激とヒント満載だったのでメモ。とりあえず括り4つ、以下(↓)全部引用。



AA:
総じて、再分配+承認だ、と。しかし、マイノリティをアゴラに入れてやるという程度の承認ではダメだったんですよ。そもそも、オイコス(オイコノミア)とアゴラ−ポリス(ポリティア)の分配に基づいて、経済的には再分配、社会的・政治的には多文化主義的承認で問題を処理するという弥縫策ではなく、構造全体の組み替え考えるべきだったんです −−− というところでマルクスの問題設定に戻るんだけれど……。(p100)

NS:
いま、僕らが欠いているのは、グローバル資本がどのようにして形成され、世界を支配し、解体していくかというのを考える知性です。「自然史過程」としてのグローバル資本主義という問題をとらえる努力を怠っていて、ピケティのように資本主義の内部情報の処理だけでやっていく、近代主義的とも言える知性形態がもてはやされる。そのため、東さんが悩んでいる思考の無力化という現象も起こっているのだと思います。(p103)



AA:(↓ p104 - 105)

現在の「承認」は、マジョリティに加えてやる、アゴラに入れて発言権を認めてやるというニュアンスです。それに対し、ドゥルーズは、マイノリティというのはたんに量的な少数派ではない(女性の人口の方が多くても女性はマイノリティである)、モデルをもたないのがマイノリティである、と言っている。それは正しいと思います。女性が男性モデルに従って戦士や企業戦士として頑張るだけなら、女性のマイノリティとしての力能が解放されたことにはまったくならない。

いまヘイト・スピーチ規制の対象とされるものはマジョリティのマイノリティに対する(たとえば日本人の在日朝鮮人に対する)ヘイト・スピーチでしょう。しかし、マジョリティとマイノリティの関係というのはいくらでも揺らぐわけじゃないですか。僕はマイノリティはマジョリティをヘイト・スピーチで攻撃する権利があると思う。

フーコーが早すぎた晩年の講義で言っているように、顰蹙を買うのを承知で語られる言葉こそが社会を変える力を持つ。そこにはヘイト・スピーチとみなされるものも含まれるでしょう。それを規制してしまったら、アゴラでの「他者に優しい」言説、生徒会での優等生の言説のような無内容なものしか残らない。

マジョリティが安全地帯からマイノリティを一方的にバカにするような風刺は「笑えない洒落」として無視する、そのようにヘイト・スピーチは社会が軽視(さらには無視)するべきものであって国家が法で取り締まるべきものではないという原則を守るべきだと思います。



AH:
本来は自然人は相互に無関心なはず、つまりニヒリストなはずなのに、無関心でなくなってしまうから社会をつくってしまう。それこそルソーが直感的に言っていたことであり、僕はこれはロックやホッブスよりもはるかに深い人間に関する洞察だと思う。ロックやホッブスは結局は、個別の利害に閉じこもった人間が、自分の権利を守るためには権利の一部を譲り渡したほうがいい、だから社会を作った(中略)という話しかしていない。ところがルソーは、そもそも人間は社会など作る必要がないのに心を動かされてしまうからこそ社会を作ってしまう(中略)と議論している。(p110 - 111)

NS:
言語というのは言語として生成されるのではなくて、まずは「音楽」で作られる(中略)。「音楽」というものは、メロディとリズムの中で人間を唯物論化、物体化するんですよね。その時に動いているのはニューロンだけで、そのニューロンが共振している。ニューロンの共振から音楽が発生し、そして言語が発生するのがルソーの考え方です。(p111)

AA:
たしかにルソーの場合は、まさにそういう共鳴があるから、ばらばらに住んでいたはずの人々が社会を作り、村祭りをするわけですね。村祭りで輪になって歌い踊るような場面では、視線の交錯の中で、全員が役者になると同時に観客になり、ポリフォニックな交響が実現される、と。それは小さなスケールではうまくいくかもしれないけれど、フランス革命期のブレの幻想建築図などをみると一万人規模の人々が円形の大会堂に会するようなヴィジョンになっており、(中略)そこでは観客が互いを眺めるといっても、結局はモノフォニックな熱い盛り上がりしかありえないわけですよ。ルソーはつねに一定の人数の社会を考えていたので、全体主義による誤用をルソーの責任に帰すのは誤りだけれど……。(p111)



AA:
IT版の空想的社会主義ないしアナーキズム(ローレンス・レッシングの言う「コモンズ」なども含めて)と、多文化主義的なコンセンサスという20世紀の理想が一巡して限界に突き当たり、それだけでは21世紀はやっていけないことが明確になる一方、(知的)所有権の(再)強化と巨大資本への集中、そのようなグローバル資本主義とその敵(たとえばテロリスト)との有無を言わさぬ戦いが前面に出てきているというのは、東さんの言う通りでしょう。ただ、短期的に、ITに希望を抱きすぎた結果、あまりに早く幻滅しているということもあるのではないか(p115 - 116)




以上、メモおしまい。

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