2016年8月27日土曜日

柄谷行人『憲法の無意識』

おそらく人一倍それに振り回されて、あるいは導かれている人間でもありまして……なので「憲法」よりもむしろ「無意識」のキーワードに惹かれての、ひさしぶりの柄谷行人。それにしても、たしかに、こういうレベルで(ありそうな説明ではなく)書かれているからこそ、読んでいて腑に落ちるのは昔も今も同じ。

憲法九条が執拗に残ってきたのは、それを人々が意識的に守ってきたからではありません。もしそうであれば、とうに消えていたでしょう。人間の意志などは、気まぐれで脆弱なものだからです。九条はむしろ「無意識」の問題なのです。(p5)


----------《 無意識 》----------



さてと、無意識。いろんな人とたまに雑談していて感じる、ものごとの俗流解釈の多さ。情報論的にやむをえないとはいえ、教科書的な、先生っぽい話はやはり断然、おもしろくない。勝手に鼻白んで私「ジョークのほうが100倍マシ」と心の中でつぶやきながら真逆のこと言ってみたり、どっか逃げちゃったり。困ったもんで。それもまた清水を振り回しつづける、あるいは導きつづける無意識ってか……とにかく、その「無意識」なるものについて、まずは、

無意識には、欲望を満たそうとする「快感原則」と、それを満たすことがもたらす危険を避けるために抑制しようとする「現実原則」があります。(中略)現実原則とは、いわば社会の規範です。それが親を通して子供に刷り込まれる。そして、それが無意識において人を規制する、あるいは検閲する。/しかし、「憲法の無意識」を理解するためには、それでは不十分なのです。戦後憲法の問題をみるためには、後期フロイトの認識が不可欠です。(p8-9)

だそうで、ホッ。ということで先を急いで、「後期フロイトの認識を先取りするものとなりえた」(p100)という「自然の狡知」なるもの。狡知っていうくらいですから、あんまりストレートに美味しくない、というか苦い。でもね、この苦味があるからそこ美味い、と大人だったら思うんじゃないか?



----------《 自然の狡知 》----------


憲法九条が含意するのは、カントが明確にした普遍的な理念です。(中略)その普遍的な理念が、なぜいかにして、他ならぬ日本において制度として定着したのか(中略)私がそこに見いだすのは、いわば「自然の狡知」です。(p79) 

カントは、国際連邦を構想しつつ、それが人間の理性や道徳性によって実現されるとは考えなかった。が、それが実現されないとも考えなかったのです。それは実現される。ただし、それをもたらすのは、まさに人間本性(自然)の「非社交的社交性」、いいかえれば戦争であると(中略)/このような逆説的・弁証法的な考え方は、ヘーゲルの「理性の狡知」に対して、「自然の狡知」と呼ばれることがあります。しかし、「理性の狡知」が神学的議論の言い換えにすぎないのに対して、カントの「自然の狡知」は唯物論的なものです。(p100) 

現実原則あるいは社会規範によっては、攻撃欲動を抑えることはできない。ゆえに、戦争が生じます。(中略)フロイトがこのとき認識したのは、攻撃欲動(自然)を抑えることができるのは、他ならぬ攻撃欲動(自然)だ、ということです。つまり、攻撃欲動は、内に向けられて超自我=文化を形成することによって自らを抑えるのです。いいかえれば、自然によってのみ、自然を抑制することができる。この「自然の狡知」とも呼ぶ考え(後略)(p16)

 内に向けられて超自我=文化を形成することによってのみ、おそらく自らを抑えるができるという人間の本性/自然/攻撃欲動。「非社交的社交性」という語もぶっちゃけ、誰もが気になるキーワードなんじゃないか? それだけに、イメージ的な俗流解釈でなく中身をちゃんと自分なりにも検証したいもの。「文化」についても。とはいえ、さらに先を急ぐと、こんどは「力」について、



----------《 力 》----------


力にはさまざまなタイプがあるのです。(p118) 
通常、実力(清水注:国際法が機能するために、どこかの国家がもつべきとされる、規約に違反した国を処罰できる実力)という場合、暴力・武力を意味しています。が、金の力もあります。また、それらとはまったく異なるタイプの力もあります。(p118)

ものごとが、マッチョな力でねじ伏せられていた時代(状態)から、文化的な諸力が錯綜する時代(状態)へ。交差点は構造である、なんていう話をむかし読んで目からウロコだった(それこそ浅田彰の最初の著書タイトルは『構造と力』)柄谷行人、ますますリアルな昨今の、れいの、交換様式からみた資本=ネーション=国家の構造分析(p121図)をもとにした、例えばコレ(↓)

九条における戦争の放棄は、国際社会に向けられた「贈与」なのです。/このような贈与に対して、国際社会はどうするだろうか。これ幸いと、攻め込んだり領土を奪うことがありうるでしょうか。そんなことをすれば、まさに国際社会から糾弾されるでしょう。したがって、贈与によって無力になるわけではない。(p129)

いろんなことを思い出しますが、ぜひ慎重に。女性の社会進出や、ユーモアや「カッコよさ」のこと、2年前のマット・リドレー『繁栄』や 3年前の J. リーランド『ヒップ』などなど。文化的な諸力。そして最後に、これ絵描きの荒唐無稽な想像力と言ってもらって結構なんですが、個人的にどうにも核反応や生物反応のおそるべき急速な、クラクラするイメージとダブる、ものごとの連鎖(反応)について。



----------《 連鎖反応 》----------


第一次大戦の場合、それが始まった時点では、四年も続く戦争になると思った人はいなかった。各国が軍事同盟を結んでいたために、その連鎖が世界戦争に帰結したのです。(中略)今後においても同じようなことがありえます。局地的な戦争はあっても、世界戦争はとうてい起こらないだろうと、いま人々は考えている。が、突発した局地的な戦争が世界戦争に発展する蓋然性は高いのです。(p183)

たとえば、日本が憲法九条を実行することが(中略)革命です。(中略)日本が憲法九条を実行することを国連で宣言するだけで、状況は決定的に変わります。それに同意する国々が出てくるでしょう。そしてそのような諸国の「連合」が拡大する。それは、旧連合軍が常任理事国として支配してきたような体制を変えることになる。それによって、まさにカント的な理念にもとづく国連となります。(p133)

形の上で九条を護るだけでなく、文字通り実行すること。で、あとはどちらの連鎖反応か? なんて言ってしまっては単純すぎるのか、とにかく、「現在の新自由主義的段階も、やはり戦争を通して終息する蓋然性が高い(中略)しかし、それは最悪のシナリオです。現在の状況は、世界戦争を経なければ解決できないというわけではありません」(p184)。


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どだい要約など、とてもできる代物じゃなく自分といまご覧いただいている貴方のための、あくまでメモとして。他にも例えば「武士道は、武士が戦争をしなくなったときに、そして剣や弓矢が『象徴』でしかなくなったときに成立したものにすぎません」(p75)などなど相変わらず、すごい密度。よかったらぜひご一読を。

私自身、「連鎖反応」はともかくとして、「無意識」や「自然の狡知」や「力」なんかについては、本当にそれによって人生、ある意味(短期的には)振り回され、同時に(長期的には)導かれてもきていると感じるだけに。いまの “超低解像度” 絵描きの状態も(↓)そうですし、まさに。……がんばれ文化!

この九条は、あとから日本人によって「内発的」に選ばれたものです。「あとから」ということが、大切です。「最初から」であれば、それはとうに放棄されています。私が主体的とか自発的という言葉を信用しないのは、このためです。(あとがき)




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