2016年6月14日火曜日

AI美芸研についてのメモ(私感&未完)

日本経済新聞・文化面(2016年5月15日付)の李禹煥「人工知能と美術家」が、中ザワヒデキさんが発起人代表の「人工知能芸術美学研究会(AI美芸研)」facebookページ等で引用されていて興味深く。



自分でも絵を描いていて思うのは、線や色がいつも、何かを “描写する/意味する” と同時に、それ自体としても何かであるということ。具象絵画とくに印象派のような粗いタッチのものを思い浮かべていただくと分かりやすいですが。モチーフを描写しようとする筆のストロークがそのまま、抽象(抽象絵画的な何か)でもあるということ。

細密に描写された絵では見えにくい、筆のタッチや絵具などの、いわば物質性。じつは描写が細かかろうが粗かろうが絵具は絵具、それは何かを意味する記号であるまえに石ころや鉄のような “物” に違いなく、その意味ですべての絵画はもともと、それこそお望みであれば「具体」であり「もの派」であると言ってしまうことも可能なのかもしれませんが。とにかく、印象派のような粗いタッチによって要するに、そのことがいっそう鮮明になる(なった)ということ。


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以上から、人工知能の話につなげるために論点をいささか強引に抽出すると、私にとって興味深いのは、絵画がつまり、有限個の「タッチ」から出来上がっているという想定=前提。絵画とはモーリス・ドニの時代からもはや「いくつかの色彩によっておおわれている平面」であり、現代ではさらに、色彩というよりも、いくつかの物質/筆触/タッチによってそれが作られている、おおわれている、という考え方。何はともあれ有限個の。

で、有限個であることが、どう人工知能の話とつながるのか? それはつまり、有限個がしかし “無限” でもあるということを、言いたいがためでありまして。


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ところで、李禹煥「人工知能と美術家」でも触れられている、まさしく昨今の人口知能ブームのきっかけともなった、AIと囲碁の強豪棋士との対局の話題。将棋もそうですが、限られた要素の組み合わせの、その膨大さ。

で、ここからは私のまだ予感にすぎませんが、囲碁や将棋やあるいは数学など(つまり、ことばのかたちで記述できるルールによって出来上がったもの)の、そのルールを仮に「フラット(平坦)な」と形容するなら、一方で、絵画や脳や人間社会がかたちづくられているルールはもっと凸凹なというか、次元が入り組んでいる

例えば数字の「2」は、アヒルに似ている。数字としての機能の上ではアヒルなんて、まったく関係ありませんが、残念ながら記号はそれぞれ示差的な独自のゲシュタルトをもち、おそらく生き物として私たちは往々にして、そんな形態についつい、何か “意味” を重ね見て/感じてしまう。


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かつて中ザワさんらの「方法主義」はそういった、重ね見られる “意味” を取り除く活動であったと記憶しています。例えば数字は、数字としての機能(名義尺度、順序尺度、間隔尺度や、あるいは素数など)だけで十分、戦慄的に「作品」たり得るのだと。たしかに。碁盤や電気回路を使った作品がまさに、あったように。そして今回おそらく「人工知能芸術美学研究会(AI美芸研)」なるものを、立ち上げようとされた衝動のベースもまた。

限られたフラットなルールの集積だけでも十分に、ものすごく奥が深いこと想像できますし、その奥の深さを(そこにそれこそ紋切り型「イメージ」など安直な “意味” を重ねてしまうことなく)まっすぐ直視することも、ますます昨今、必要な気がします。プロ棋士の頭の中でどれほどのウルトラC が繰り広げられているか!


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とはいえ、やはり囲碁や将棋やあるいは数学などと、絵画や脳や人間社会との違いもまた私、気になりまして。後者がただ単に漠然と「もっと複雑」というのでなく、もう少し原理的に異なるに違いないと。

有限がしかし “無限” でもある、ということ。囲碁や将棋よりも、もっと(ルールとして)ずっと単純化してもなお。……以上、途中ですが自分的にお蔵入りするまえにアップ。失礼しました。


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