2015年10月19日月曜日

M.クライトン『マイクロワールド』


岐阜市の肺がん検診というので先週、家の近くの公民館に行ったときのこと。待ち時間に、たまたま書架にあったこのマイクル・クライトン『マイクロワールド』上巻を手にとって、ぱらぱら読み始める。

問題は、当人たちが “理解しているつもりでいる” 点にある。(中略)観察すればするほど、自然界は神秘的に見えてくるし、自分がいかにものを知らないかをまざまざと実感する。そしてその子は自然の美しさとともに、豊饒さ、浪費性、攻撃性、残酷さ、寄生性、暴力性などを、身をもって知ることになるだろう。(中略) 
膨大で多様な要素と相互作用から成る自然とは、まさに複雑系であり、それゆえに、理解することも、そのふるまいを予測することもできない。(中略) 
人間は複雑系ときわめてうまく相互作用をする。それは日常的に行われているとおりだ。(中略)“理解しているつもり” 程度の紋切型の判断では、そうそううまく対処できるものではない。(中略)自然界と相互作用するにさいして、われわれは絶対確実という概念をあきらめる必要がある。これは今後もつねにそうだろう。

たしかになぁ、なんて思いながら。この(↑)短い「はじめに」のあと、ストーリーが始まるんですが、とにかく私、めったに小説なんて読まないだけにほんの、ひまつぶしのつもりでページをめくる。謎の三人変死事件に続いて、この小説の主人公となるハーバードの優秀な大学院生たちをスカウトにやってきた、研究開発系ベンチャーの社長らが乗ったフェラーリが 2台。ひとくさりあった後に、

「なんでフェラーリなんかに乗ってるんだ?」兄と肩をならべ、車から離れていきながらピーターはたずねた。「あれを乗りまわす目的はなんなんだい?」
「あれでイーストコーストじゅうを流していくのさ。道すがら、有名大学の生物学研究室に立ちよって、ちょっとしたパフォーマンスをしては、入社希望者をつのる。ひととおりかたづけば、ボルティモアで返車することになっている」(p39)

この小説おもしろいかも、と思い始める。研究室内でも外の世界に対しても、とても競争心旺盛なアメリカの大学院生たちの様子はちょっと、忘れかけた何かを思い出させてくれるようでもあり。理科系のコアな話にデリダやフーコーの名前が混じるのもツボ、いずれにせよアカデミックでよろし。とはいえ、自分が実際にいるのは地元の公民館で、周囲で待っているのはジジババがほとんどで話題も誰々さんが、どうしただの、こうしただの……このギャップもまた、よかったのか? とにかく(↓)フェラーリに続く話、

「たしかに、魅力的なパフォーマンスではあったけど」ジェニー・リンがいった。「あれってセールストークだよね」
「同感だ」アマール・シンがうなずいた。「しかし、すくなくとも、彼がいったことの一部は事実だぞ。発見は新しい道具によってなされる。そこのところは正しい。新方式の顕微鏡や新時代のポリメラーゼ連鎖反応に相当するものがあの会社にあるのであれば、短期間に大量の発見がなされるだろう」(p47)
「民間なんて、知性の不毛地帯じゃないか。(中略)大学にいれば、春をひさぐようなまねをすることもないしな」(中略)
「あなたの考え、硬直的だと思うわ。わたしなら民間企業で働くのは平気だもの」(p31)
ラボにもどった院生たちの目には、見慣れている研究環境が急に平凡で時代遅れなものに見えてきた。(中略)これはどこでも同じだが、院生というのはライバル同士だ。そしてみんな、この環境での研究にうんざりしてもいる。(p43)

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肺がん検診のレントゲン撮影が終わって、帰りがけ、公民館の人に訊いてみたら「ここに名前と住所を書いて」と言われて上下巻すんなり、貸してくれる。誰が蔵書にしたんだろう? 感謝しながら。これまで気にしたこともなかった作家との、こんな出会い方も初めて。

そのあと数日、仕事の合間などに読みふけった「わずか 2センチのマイクロサイズに “次元変換” されてしまった学生たちが、大自然と対峙する極上の冒険活劇!」(上巻の帯より)は、まさにハリウッド映画のようで、その意味で大変におもしろくもあり物足りなくもあったけれど、何はともあれ最後に挙げてある参考文献のような膨大な科学的知見をとにかく、小説というかたちのエンターテイメントにまとめる手腕はお見事。この力強さがアメリカ的だと思う。

日本的コンテンツのやたらと繊細なばかりの「私小説」ノリ(?)とは、えらい違い……と、言ってしまえるほど小説にしろ何にしろ知りませんけれども。本来とにかく、自然もこういうSF話も、くだらない自意識など関係ないのがいい。空気を読むくらいなら、もっと読むべき本が(あるいは力強く研究すべき事柄が)たくさんあるはず。なんつって。

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小説のなか、冒頭の引用を繰り返すなら「美しさとともに、豊饒さ、浪費性、攻撃性、残酷さ、寄生性、暴力性など」に満ちた自然に囲まれて、マイクロヒューマン化された大学院生たちは思う、

「なぜだかわからないけど」とカレンはいった。「いままでずっと、こんな場所をさがしもとめていた気がするわ。故郷に帰ってきたみたい」(p217)
学問の世界でなら、ライバルの足を引っぱったり、ほかの者より優秀であることを誇示する生存戦略も有効だろう。しかしこの森では、それは通用しない。生き延びることが第一なんだ。生きぬくためには協調する必要がある」(中略)「かつてだれも見たことのない自然の姿を間近から目のあたりにできる、これは千載一遇のチャンスだろう。しかし、どんな行動をとるにせよ、みんなで協力してことにあたらないかぎり、ぼくらは死ぬ」(p247)

……とね、しかし生半可に引用すりゃするほど逆に日本的「私小説」ノリに、ともすれば近づいてしまうようで。違いますから。宮崎駿みたいな(って、ちゃんと観たことないけど)いわゆる「やさしい」感じほとんどなく、実際もっと、ずっとタフなこの自然観。そんな意味での故郷。意外なことだらけだし。どんどん登場人物たち死んでいくし。善も悪もなく。仏教的世界観とでも言えばいいのか。だからこそ、

おもしろかったです、とにかく。いい刺激になりました。自分のつくるコンテンツや、それを届けたい顧客のこと、研究方法のこと、あるいは現在の状況や理想の未来について、あれこれ勝手にメタフォリカルに、共感をもって考えながら。

(おわり)

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