2014年10月14日火曜日

TestToneMusic Listening Vol.1

TestToneMusic Listening Vol.1 というのが10月4日(土)の晩に、名古屋市内の Bar Sciviasでありました。やっとこさその感想。「ライブ演奏という枠にとらわれることなく、様々な電子音楽の実験的な音響を聞いてもらいたいと思っています」というイベント。

全然関係ないけど(↑)Ivan Chemayeff


始まっていた最初のDJのあと、TestToneMusic主宰の菊池さんの番になったとき、1曲目がいきなり「名古屋じゅうの地下鉄にいっぺんに乗っているかと思いました」と私、言ってしまったノイズ音楽。ええ、地下鉄の硬質な音とグルーヴ感、それが一度にあったなら(現実的には不可能だけど)リズムの解釈もさらに自由度が増して、ノる。ガラスの割れる音だったそうですが素材、本当は。

何はともあれ、あるタイプの音が断続するとき、そこにグルーヴを(頭の中で、思わず)重ねてしまうコレ、ビョーキなのかしらん。なのでノイズ音楽でも私、おもしろいと思ったら、踊れます。はたから見たら、痙攣しているように見えたとしても。

そんな誰かの(ノイズ・マニアの中では定番なのかな)作品がいくつか紹介され、3曲目の音圧と疾走感なんか耳にいまでも残っていますが私、来てみてよかった、と。4曲目の菊池さん自身の曲も「おっ」と思いました、とくに前半。


すれっからしのための音楽?


途中や終わってから、Bar にいた人たちと話していて(こういうところも、聴いて帰るだけのライブと違って、おもしろかったです)My Bloody Valentine やら、ノイバウテンやら The Jesus and Mary Chain やら、Nick Cave やら懐かしい名前もたくさん出てきて、なんとなくノイズ好きのルーツをみるよう。

要するに、もっと遠くへ、もっとビビッドに。強さであれ、あるいは逆に、弱さであれ。人工的な感じ、もしくは自然について。大いに共感します。ゾッとするような Kraftwerk のテクノ感にしても、昔からビビッド。探しているのは常に、Far Out なもの。あらゆる音楽もちろん含めて。これ世代的なものなのか、どうなのか。

いかにもありそうな、程よいものに「癒し」どころか、正反対のイライラをつい感じてしまう難儀な性分。お望みなら森の中で、鳥たちの声(その、ほとんどノイズ/テクノ的な鋭さ)に耳を傾けてみたらいいと思う。身勝手な人間の想像の中にだけにある、いやしい「癒し」と決別するために。なんつって。


ぶった切る快感


菊池さんのあとは、休憩をはさんで、むかし一緒に Billy? をやっていたという高木さんによるターンテーブル・ノイズ。このときは私「ものすごく速い(1シーン1,000カットとか)ゴダール映画のような」と思わず。

すいませんね勝手なことばかり言っていて。オレが身勝手じゃん。でも、そう思ったんだから仕方がない。つまらなかったら黙ってるんですが、おもしろかったときは私、つい恥も外聞もなく、口に出てしまう。ゴダールも私、とくに80年代の何本かがとても好きで。あの、ぶった切って、いきなり繋げたときに出る(それでしか出ない)“感じ”。

ていねいに、あるいはフェードでなめらかに、やってしまったら台無しになるような何か。ターンテーブルはまさに、音をぶった切ってコラージュするには、うってつけの道具。一般にいうDJが曲と曲を、なめらかに繋ぐのの真逆? 曲どころかブッと音が鳴った途端、いきなり次の音。それでも私、やっぱりスイングしていました。はたから見たら、痙攣しているように見えたとしても。


音楽であるからには豊かであってほしい。


やっぱりノれないと、いやなもんで。たんにムチャクチャなだけでは、きっと退屈してしまう。ビートに痙攣気味にもいろいろノれて、そのなかで「こう」きたり「ああ」きたりの変化があってこその、時間芸術。音色についての(ノイズなのに)センスも含めて。豊かさ。いや菊池さんとの話じゃないけど時間もそれこそ、程よいスケールじゃなくて一向に構わないワケですが。3秒の曲だとか、20時間の曲だとか。

しかし、どこで演るんだ、そんなもの。「あんまり家や、カーステじゃあ聴きたくないですね」と私。そりゃ、ねえ。近所迷惑だし。やっぱり今回のような、あるいはギャラリーのような空間で、思う存分。1980年代〜90年代初期の西武(セゾン)美術館なんかであった、現代の作曲家を招いてのレクチャー・シリーズみたいなものを、ちょっと思い出しました。

ZTTサンプラーをたまたま、ちょうど聴いていたときでもあり。80年代の「ポストモダン」的な韜晦ぶりと、カッコよさ。いまも立派に現役な気がする。テクノロジーがまだ粗っぽかった時代。現在との、ある分岐点?

ぷにゅ、だの、ぽわわん、だの巷にシャレが蔓延したのはよしとして、そんな柔らかな電子のお母ちゃんたちに囲まれているうちに、いい大人までもがホントに幼児化してしまいかねないとしたら、シャレにならない。なめらかなファンタジーの先の荒野へ。記号のゲームを超える物質性と、自由について。この世界の成り立ちについて。なんてことを(ちょっと酔っぱらいながら)考えられる場所、やっぱり貴重だと思いましゅ。ぽわわん。


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