2014年10月1日水曜日

「休日映画」の感想

9月27日(土)岐阜県美術館でおこなわれた、IAMAS卒業生の斎藤正和さんの「休日映画」上映とトーク。熊谷守一展もあることだしイライラしたらそっち行こ、とあんまり期待しないで行ったらば「休日映画」おもしろくて、トークでも思わず(誰も発言しないので)発言。


映画になっている、ということについて。


トークのなかで澤隆志さんも言われていましたが、ホーム・ムービーでなく映画になっている、ということ。挙手して私も、要は「サービス満載」。本人、映像作家なだけにカメラを飛ばしてみたり、水に浸けてみたり、再生速度を変えてみたり、そして何より、音と映像のモンタージュ。

これみよがしにやられるとクサい、そういったテクニックも “映画” ではごく自然に使われながら進行をビビッドにする。それでこそメディアのプロだと思う。ビビッドであればこそ何であれ、おもしろい。会場で子供たちがキャッキャ言っていたのも、わかる気がする。自分も会場でそうだったし。赤の他人(もしくは十年後の本人)が見ても、おもしろい映像。

おもしろい映像

YouTube用の断片(短編)が元になっていることも今回、さいわいしたんでしょうね。テンポよく次々と出てくる、おもしろい「サービス」の数々。←作家に向けてこういう言い方アレだけど、とにかく。演出や、切り替えのタイミングも気がきいていて。そして、モチーフが子供というところもまた。


子供アバンギャルド


話は少し脱線しますが、「ダライモ」だったかな……先週たまたま友人宅で、ある知的障害の子が描いた丸い顔の横にそう書いてあるのを見たとき、心がちょっと踊りました。つまり、ドラえもん。この正確さ(サウンド的な)と突飛さ。そういったものが「休日映画」のなかにも、たくさん。

トークのなかで、澤さんも斎藤さんも「小さな子供が言葉を獲得していく様子」という言い方をしていましたが、たしかに、そうだと思う。しかし、それだと「成長の記録」というような、ホーム・ムービーの範疇?

むしろ、私たちの日常言語が壊れていく、もう少し平たく言うなら “拡張されていく” おもしろさ。そう観てこその(ワタシ的には)映画でありアートであり。様々なモンタージュの実験も、撮り方の実験も、そのためのものに(ワタシ的には)見える。いや、結果、そうなっていたと思います。

子供が、かけっこで一等になった喜びの説明/記録よりも、そのときのピース・サインの指先の曲がり具合にむしろ、おもしろみを感じてしまう(そんなシーンなかったけど、例えば)作家性。あるいは「ダライモ」に、矯正すべき間違いよりも、むしろ創造的な何かを見てしまう作家性。日常をなぞるマクロな視点でなく、そこに思わぬ非日常を発見してしまうミクロな視点とでも言うのか。そういえば本来「休日」の楽しみもまさに、そこ?

であればこそ、ダダなど昔のアバンギャルドにも、ようやく、つながる話になりそうなもの。進行という点で、商業映画では「物語」がビビッドになるとしたら、今回のような作家モノの場合は「映画/映像についての考察」がビビッドになる。J. L. ゴダールの、私の好きな80年代の作品いくつかも、まさにそんな感じ(に、物語までやってみせるところは別格として)。AR等とはまったく別な意味でメディアによる、現実の拡張。

退屈な「アーカイブ」話とは別なところで、映像作家の手にかかると家庭もこんなふうに撮れるんだという、ちょっと希望のもてる映像/映画。たまたま大きなプロジェクションで観られて、よかったですよ。ほとんど動きのない画面、左半分に寝ている子供の小さな胸だけが、かすかにスーハースーハー息して動いている様子のかわいさといったら、もう。

スーハースーハー



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