2014年5月7日水曜日

ローレンツ『ソロモンの指環』

いわゆる “あまりに” 人間的なものは、ほとんどつねに、“前” 人間的なものであり、したがってわれわれにも高等動物にも共通に存在するものだ(p99)

という引用から始めましたが、K. ローレンツ『ソロモンの指環——動物行動学入門——』。ハヤカワ文庫ノンフィクション読みながらの今回も東京出張……GW期間を利用して、いつものように友人宅に泊めてもらいながら、360°GRAPHICS でのアート話とシルクスクリーン講習4日間。おかげさまで心楽しく。

で、『ソロモンの指環』。たとえば、れいの有名な「刷り込み」の話、この日本語版でいうと第7章「ガンの子マルティナ」の、かわいさといったらもう。孵化した「ちっぽけなガンは私に “あいさつ” をはじめた」(p159)そして、「彼女は一瞬たりともひとりぼっちではいられなかったけれど」に続く、たとえばこれ(↓)

考えてもみたまえ。このような小さなヒナが母親や兄弟姉妹を失うということは、野外の生活ではまず確実に死を意味するのだ。そのような迷える子羊は、食うことも飲むことも、眠ることをも考えず、疲れ果ててたおれるまで、助けを求めて、泣き叫ぶことにすべてのエネルギーをかたむける。このことは生物学的にみて意義深い。その鳴き声のおかげで、彼らはきっと母親をふたたび見出すことができるだろうからだ。(p166-167)

思わず赤字で強調。かわいさを擬人化して受け止めるのでなく(サイエンスですから、あくまで)その合理性に着目するところがローレンツ、さすが。つまり、その「わがまま」はまさに “正しい” のだと。解説によれば近年「動物たちの行動は、ローレンツが考えていたように『種の維持』のためのものではなく、個体のためのものであるとみなされるようになった」(p293)そうですが、とにかく。理にかなっているということ。いわば “自然の知恵” そのものの、かわいさ。人為の逆。大賛成。

真の文化をもつひまさえない現代文明人の少々ばかげた忙しさは、動物にはまったく縁がない。勤勉の象徴であるミツバチやアリでさえ、一日の大部分をなにもせずにすごす。ただ人間にはそれが “みえない” だけだ(p170)

とローレンツ先生、手きびしい。東京駅も混んでましたね GW、帰りがけ(自分もその一因だったんだけど、はぁ)。「動物には、意識して特定の行為をしようと決心する、すなわちひとつのことのためにそのほかの刺激を全部おさえてしまおうという能力が欠けている」(p122)そうで。そのとき引き金となるのは、意識ではなく、あくまで 「生理的気分」(p121)。そして、さらにいうなら「動物は音声を発したり表現運動をしたりするときに、それで仲間になにか影響を与えようという意識的な “目的” などはまったくもっていない」(p134)と。かわいい。

けれども、自分の生理的気分をしめすにすぎない(コクマルガラスの場合:清水注)このまったく無目的の表現は、おそろしく伝染性をもっている。ちょうど人間であくびがつぎつぎにうつっていくようなものだ。(p121-122) 
無意識的な感情と情熱を伝える神秘的な発信・受信の器官は、長い歴史の産物である。それは人類とはくらべものにならないほど古い。人間ではこれらの器官が、明らかにことばによる言語の発達にともなって退化してしまった。(p135)

書き写しながら私自身はといえば、こりゃ使えるかもと、すっかりアートとマーケティングのこと考えてるわけですが(←かわいくない。セコい)。「衝動的かつ遺伝的なもの」(p175)と「“学習” されたもので “洞察” をふくんでいる」(p142)ものの違い。……いや、しかし人間/私だけがセコいわけでなく、たとえばイヌの場合(↓)

それまでの、おこぼれをあてにして狩人たちについてきたジャッカルの群れは、いつのまにか、狩人たちの “あと” ではなくて “前” を走るようになり、えものの足跡をつけて、えものを狩りだすようになったのである。人間の手をかりず自力ではとうてい狩りとれない大きなえもののおこぼれを食べるのが習慣になったこの原家畜たちは、そうしたけものにたいして大きな関心をもつようになったにちがいない。彼らはこれら大型獣の足跡をつけてゆき、その居所を人間に知らせることをはじめたのだった。(p218-219)

出ました家畜。しかし「畜」なんていうけれども、「人間とイヌとのこの古いむすびつきが、両者の自発意志にもとづいてなんの強制もなく契約されたということ」(p219)に、ローレンツ先生も心なごむそうで。たしかに。個体や種をこえる、ある “システム(=系)”——ひらたくいえば「餅は餅屋」の助け合いと進歩—— のお話。セコいなんていって失礼しました(自分のことはこの際、おいといて)。それが自然でありさえすれば高等動物の、学習も、洞察も、もちろん素晴らしい。

キリないので最後に。系といえば。「それはほとんど金がかからず、しかもじつに驚異にみちたものである」(p26)という水槽/アクアリアムの、なんとも繊細な平衡状態の話。「アクアリアムを『その自由意志にまかせる』には、かなりの謙虚さと自制心が必要である。うっかり世話でもしたりすると、たとえそれがいかに善意からでたものであるにせよ、いろいろな弊害を引き起こすことがある」(p31-32)そうで。

私はいつも、アクアリアムというものは “自分自身で” 平衡を保ってゆける生物共同体だと考えている。それ以外のものはたんなる「檻」だ。つまり人工的に掃除され、衛生的に完璧な容器にすぎない。それはそれ自体が目的ではなくて、ある動物を飼う手段にすぎないのだ。(p32)

掃除する必要さえもないアクアリウム! そんなことが可能だなんて。目からウロコでした。敷衍したくなりますね、思わず。

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