2014年3月5日水曜日

『予想どおりに不合理』

アメリカ人のエンジニアリング魂とでも云うのか、それこそフロンティア・スピリット? 何でも実験して検証し、学び、みずからの向上につなげていこうとする姿勢にいつも感心します。2月28日〜3月4日ひさびさの東京出張のなかで(電車移動が多いですから)読んでいたダン・アリエリー『予想どおりに不合理』。いつものハヤカワ文庫ノンフィクション。終わりがけに著者、

わたしたちはみんな、自分がなんの力で動かされているかほとんどわかっていないゲームの駒である、ということだろう(p440)

と。「わたしたちは、目の錯覚に引っかかるのをどうすることもできないように、心が見せる『決断の錯覚』にころりとだまされてしまう」(p441)。モザイコでもよく言っていますが、人間の知覚というのは本当に不思議。そのうえ「信念や予測が、視覚、味覚などの感覚刺激に対する知覚や解釈に影響をおよぼすだけでなく、予測が主観的な経験ばかりか客観的な経験さえ——ときに根底から——変化させることで、わたしたちに影響をおよぼしうる」(p319-320)のだと。例えば、あるプラセボ(偽)手術の話のあとに、著者自身の体験も交えながら(↓)

実はプラセボは暗示の力で働く。プラセボが効果を発揮するのは、人々が信じるからだ。主治医を見ればよくなった気がする。薬を飲めばよくなった気がする。主治医が高い評価を受けている専門家だったり、処方箋の薬が新しい特効薬か何かだったりすれば、ますますよくなった気がする。(中略) 
一般に、プラセボを働かせる予測は、ふたつの仕組みによってつくられる。ひとつは信念、つまり、薬や治療や世話をしてくれる人に対する信頼や確信だ。医師や看護師が自分のことを気にとめて、大丈夫だと安心させてくれるだけで、よくなった気がするだけでなく、体内の治癒力が活性化される。(中略)
ふたつめの仕組みは、条件づけだ。(中略)痛みの場合、予測がエンドルフィンなどの脳内麻薬をはじめとするホルモンや神経伝達物質を放出させ、激しい苦痛を遮断するばかりか、あふれんばかりの高揚感をもたらす(中略)。針先から液があふれそうな痛みどめの注射を手にして看護婦がやってくるのが見えたとたん、ああ、ありがたい。わたしの脳は、針が皮膚に刺さってもいないうちに、痛みを和らげるオピオイドを分泌しはじめる。(以上、p322-324)

これ、眉唾な事象に対する眉唾な解説と、私自身、読みかねない話なだけに(しかし著者はMITやプリンストン高等研究所、UCバークレーやスタンフォード大などで教員や研究員をしてきた “行動経済学研究の第一人者”)すぐあとに、それを具体的に調べる実験がついてくる。ごくシンプルなかたちにエッセンスを絞り込む手際のよさと、それを不特定多数の人々に対しておこなう実行力。信憑性のご参考にサンプル数はちなみに100人(p326)のときもあれば、2000人(p411)のときも。価格とプラセボ効果の関係についての実験では、結果「より痛みを経験し、そのため、より鎮痛剤に頼った人では、価格とプラセボ効果の関係がより強調されていた」(p329)そうで……読み飛ばしてしまうには少々、ナニな話。他にも例えば第6章「性的興奮の影響」では、実験(内容はご想像におまかせします)のあと、

わたしたちはみんな、いかに「いい」人であろうと、情熱が自分の行動におよぼす影響を甘く見ている。もっとも聡明で合理的な人でも、情熱のただ中では、自分が思っている自分とは完全にすっぱりと切りはなされてしまうようだ。しかも、ただ自分について誤った予想をするというだけでなく、その誤りの程度が甚だしい。(p191)

そんな人間の性質がナルホドいま、いろんなビジネスで悪用されかねない、というか既にされている?……もちろん、あらゆる物事の性質はそもそも善用も悪用も可能。こと人間活動となった場合、したがって最後のキーは、信用。第12章「不信の輪」以下、章は「わたしたちの品性について」その1、その2へと続きます。今年のお正月に読んだ『繁栄』p174のイーモン・バトラーの言葉「市場システムは(中略)利己主義を完全に有徳のものに変える」などもサテ実際は、と思い出しつつ。

経済学でよく引き合いに出される「共有地の悲劇」を、我々が具体的に体感できるよう「公共財ゲーム」(p356-)化してみたり、ズバリ「腐敗した経済活動で得られる金額は、家庭を狙う標準的な泥棒などとは比べものにならないほど巨額だ」(p375)と言い切ってみたり、著者がんばる。

信用をきれいな空気や水のように公共財としてとらえるようになると、信用の度合いが高ければ、人と意思疎通ができ、財産の移行を円滑にでき、契約を簡素化できるなど、様々なビジネス活動や社会活動において、すべての人が利益を得られることがわかる。(中略)とはいえ、共有地の悲劇からもわかるように、短期的に見ると、個人にとっては、確立された信用を裏切ってつけこむことで利益が得られるのも事実だ。 
信用は貴重な公共財であり、これを失うとすべての関係者にとって長期的にはマイナスの結果となりうる。大半の人も企業もこのことに気づいていないか、無視しているのではないかと思う。信用を裏切るのはたやすい。悪いプレーヤーが市場に数人いるだけで、ほかのすべての人にとって信用がだいないしになってしまう。(以上、p359)

この「悪いプレーヤー」というのが、しかしながら、一筋縄でいかない。例えば最初のほう第4章では、我々の「考えのなかにいったん市場規範がはいりこむと、社会規範が消えてしまう」(p127)とされ、いまの世の中と似ているのか被験者は「お金のことを考えたために独立独歩の傾向が強まり、助けを求めたがらなかった」(p131)というような実験結果が示される。善くも悪くも。そして、終わりのほうで(↓)

みんな本質的には正直でありたいと望み、自分を正直な人間だと思いたがっているが、一方で、仕事を失いたくないし、成功したいとも思っている。代用貨幣がわたしたちに道を誤らせかねないのは、まさにそんな状況のときだ。代用貨幣なら、わたしたちは良心を迂回して、不正行為の恩恵をどこまでも追求してしまう。(p418)

ふと思い当たるところでいえば、解約の手続きを忘れたり、面倒だと思っている人々から小額の年/月「会費」を自動で引き落とすのは、盗みではなく「自己責任」……私にも(引き落とされる側で)よくある代用貨幣の怖さ? とにかく、わたしたちの体内の正直監視モニターは「わたしたちが大きな違反行為——イベント会場でペンを箱ごとごっそりもらうなど——を意図したときにしか」(p384)反応してくれず、ペンを一、二本失敬するくらいの小さな違反行為の場合にはフロイトのいう「超自我」も眠ったまま目を覚まさないという……困ったもんで。対処方法のひとつとして、著者は「職業宣誓のようなもの——に署名する習慣をつけたらどうだろう」(p395)と、これも実験つきで、述べる。

職業や専門家を意味する「プロフェッション(profession)」という英語は、ラテン語で「公に宣言した」を意味するプロフェッスス(professus)からきている。(中略)秘義の知識を身につけた者は、その知識の実行を独占する権利を得るだけでなく、自分の力を賢く正直に使う義務を負ったとされる。(中略)厳格な専門職意識は、柔軟で個人的な判断、商業への原則、富への欲求に取ってかわられ、それとともに、専門職が価値基準としてきた倫理や価値観の基準が消えてしまった。(p292-293)

状況により我々が善にも悪にもなりかねないことの自覚。そして「わたしの考えでは、わたしたちは不合理なだけでなく、『予想どおりに不合理』だ。つまり、不合理性はいつも同じように起こり、何度も繰り返される。消費者であれ、実業家であれ、政策立案者であれ、わたしたちがいかに予想どおりに不合理かを知ることは、よりよい決断をしたり、生活を改善したりするための出発点になる」(p22)というアメリカ人のエンジニアリング魂、いいと思います。賛成。

ある種のコメディやパンク・ロックや、文学やアートもこれまで我々の不合理性のいろんなパターンを表沙汰にしてきましたが、こういった学問分野で実証的にやられるのもまた痛快。完ぺきな世界などありえないとしても、それを目指すのを諦めてしまうことが本当に世界の終わりを招きかねない昨今? マット・リドレー『繁栄』とたまたま一緒に買ってあったのも何かの偶然。いいセット(この二冊)になりました。


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